部屋の除湿器の音がうるさい

難解で晦渋めいた文章をわざわざ理解できないと宣う人の心の奥底には無暗矢鱈に開き直った劣等感と得体の知れない不安が狗のように付きまとっているという事実が理解させる気がないだの理解させる気がないものを書いてもお前は孤独だだのそういった本音を理解できないという短い言葉に凝縮させていることを考えるにつけても結局紙面上ないし画面上に点の集合体として描画された言葉という嘘が本物の口から放たれた言葉に遠く及ばないレベルで言葉のレゾンデートルに合致していないあるいは合致することができないほど言葉というツールに脆弱性が隠匿されているような気がしてならない。

 

伝言ゲームだと思う。

言いたいことは顔を合わせて伝えないとまるっきり伝わらないわけで、一度紙面上画面上の文字を介してしまったが最後、伝言ゲームのように嘘が電波に乗って伝播していく。画面に打ち込んだ文字はほんの少し伝えたかったこととはずれていて、相手はそのずれた言葉をさらにずれて解釈するものだから、結果的に伝わったことは伝えたかったことと正反対の色をしていたりする。だから本当に言いたかった言葉を殴って右手で握りつぶして殺してまで顔を合わせない選択をすることはおよそ賢明でないはずなのに、我々には愚行の権利があるのだから、愚かな選択をして愚かだったと遠い目をして内心安心の息を吐く域を出ない。

やっぱり伝わんないなと思うことは多い、誰だってそうだと思う。伝わらないなら伝わらないなりに一生孤独に生きていかなきゃいけないのだけど、なかなか残酷だ。考えることが孤独なら孤独を避けるためには頭を使わないことを覚えなきゃいけないけど、そうそうできるものじゃない。どうしても伝えたいことがあっても、切腹してもなお伝わらないという空虚な事実を文豪は教えてくれるのだし。

せめて自分が受け取るときぐらい、努力のひとつやふたつを支払いでもしないと人は永遠に孤独から抜け出せない。僕は抜け出すつもりもないが、灰色の脳細胞を他人がために費やす人間への救済を見えない誰かに祈りたい気持ちで溢れんばかりだ。

エイプリルフール

精神異常者ごっこ遊びの悦に浸る人間が特別視されたいという欲求を以て円形の有象無象やらの中心に侵入したところでいざ回りで行われている椅子取りゲームは彼を椅子にすらなれない木偶の棒と見做す。インサニティが誉め言葉だとかそんなはずがないとかそもそもそんなことどうでもいいだとかその心底どうでもいい議論の3秒前に人はそいつは狂ってすらいないという決断を下し溜飲を下し木偶の棒に向かって唾を吐く。お互いがお互いを見下し軽蔑し侮蔑し睥睨するものだからコミュニケーションのコの字もあっちゃいない。コミュニケーションにおける無限降下法である。棒は自身を選ばれた存在だといつの間にか取り違えてしまって尊大な言葉を矢継ぎ早に回転させてふらふらと足元を崩しているし、椅子たちは円の中心に背を向けて意味もなく途中でぶつ切りに切断される滑稽な音楽を聴きながら嗚呼愉快、嗚呼愉快とげらげらげらげら笑っている。ドグラマグラを右手に抱えた棒は右手に持っているそれを使いこなせるはずもなくそのうち訳の分からないことをのたまって自分の中で理論は整っているけど誰も理解しようとしてくれているはずもないから僕は一生孤独でいいやと世界の色即是空森羅万象に嘘を吐く。愉快な椅子たちはその棒の自己陶酔酩酊状態があまりにも可笑しくて可笑しくて仕方がないからぱしゃりぱしゃりと写真を撮ったりちょっと棒の方を見てやったふりをして煽り立てたりする。棒はやがて立つのもしんどくなって、でも四方八方を椅子に囲まれているから場所を今更変更するわけにもいかない。私たちは結局永遠に分かり合えないのだなどとプラスチック並みに安っぽくてくだらない諦念とか厭世観に逃避して何かを悟ったふりをする、分かり合おうという気なんて初めからなかったくせに。何の努力もなしに誰かの上に立ちたいとかいう安直な、人生を舐めているような小学生的な発想を片手に好き放題やろうとした自業自得のくせに。椅子は椅子で、竜宮城行きのバスに勝手に赤色の旗を立てて集団になって剣とか銃とか拳銃とかでカメをタコ殴りにして、集団でいる強さを自分の強さと勘違いしていたりする。下等動物同士の喧嘩を議論だの対話だの高尚な名前までつけてあれはこうだったとか武勇伝のごとく語るのだ。

初めから他人を消費するつもりの人間しかいないのは僕が一番よく知ってるよ。嘘だけど。

わたがしスパイラル

踏み台とか足場とかサンドバッグとか、何であれ他人に利用価値があったり吸い付ける蜜が残っていればなんでも良くて、首から上と首から下が綺麗につながっているかつながっていないかは心底どうでもいいんだよな。呼び方は敵だとか味方だとか、まぁ日本語の多様性カッコワライはどうでもいいところで他人を分類してるんだけど、やっぱり他人は利用さえできれば性別家系人種生死なんて心の底からどうでもいい。そうじゃなきゃ異常なんだよ、精神異常者なんだよ、どこかおかしいんだよ、狂ってるんだよ、頭の螺子がどこかにぶっ飛んでるんだよ、五体満足とは呼べないんだよ。全部エゴなんだよ。誰も他人の事なんて根っから考えてないんだよ。自分のことを考えてるついでに他人のことも考えてるふりが上手いだけなんだよ。自分を良く見せたいだけなんだよ。全員が全員各自に割り当てられた鏡の前で必死に踊り狂ってリストカットしてるんだよ。切り落とそうにも両手首の皮膚はまだ繋がってないわ切り落とせる皮膚は残ってないわで大変なんだよ。しょうがないから頸椎を切り落としたいとか思っちゃうんだよ。でもそんな勇気ねえのな。両手はどこまでも真っ赤っ赤の朱肉のスポンジのごとく染まりに染まってるのに、右手のカッターはやれ切り落とすには刃の強さが足りんだとかまだほかのとこ残ってるだとか精一杯否定しようとするんだ。

さっさと切るの続けろよ そういうの得意だろ なぁ よく他人の右手切り刻んでんじゃねえか 同じ要領だろ 出来ないはずないよな

拝啓

苦しんでいる。僕にはどうすることも出来ない。もう打つ手がない。事実だ。僕が味わったぶんの苦しみぐらい味わってくれ。今まで蔑ろにしてきた幸福を噛み締めてくれ。僕はそんな人間が好きなんだ。今まで噛み締めてきた幸福がすべて砂の様に崩れていくのを見てくれ。全うに生きることに少しの意味もないことを知って笑ってくれ。僕にはどうすることもできない。心に鍵でもかけて、不幸の上にある幸福を味わってみないか?僕はそうだったんだぜ。

それが幸福だったんだよ。

2-4-6-8-切断虚飾

本当の意味で無駄じゃないものなんてあるはずがないわけで、その時点で無駄という言葉は意味を失っていることがよくある。今こうやって無駄な文章を永遠に生産しているのと同じように、生き物は無駄な生き物を量産していく。生き物はいつだって無駄だ。無駄というのは主観的な発想だから、自分が何かを享受すれば無駄じゃないし、自分が何かを不必要だとみなせばもうその時点で無駄なのである。当たり前だ。その無駄という言葉を第三者と共有したり、存在する全員が同じように無駄だと思っていると考えたりするから人はややこしい。ごく自然のことだけれどある人にとって無駄なものは他の人にとって無駄じゃないかも知れないし、その逆も然りなのである。

さて無駄という言葉と寸分たがわないベクトルで他の言葉も本来同じ土俵に乗っているはずなのである。ところが人はそのままでは意思疎通ができなくなってしまうから、この事実は言葉のレゾンデートルを完膚なきまでに破壊してしまうから、欺瞞を欺瞞のままに意思疎通を行ったことにしている。言葉は人が考えるよりずっと繊細なもので、同じ発音の同じ言葉ですら別の意味になってしまうほど脆弱なものだ。同じ文章を読んだところで同じ感情だとか同じ感想だとかを抱くはずもない。すなわち言葉を武器に他人の身体を抉るに傷つく場所は多種多様、ということだ。鑑みるに、僕が常日頃感じることなのだけれど、大衆受けするものを書くことがいかに難しいか。美徳だとか真実だとかは関係なく、迎合される、人口に膾炙するような言葉の羅列は随分エラボレイトされたものだなぁと思う。常人のなせる技ではない。その位置まで到達するつもりがないのは、僕が月まで歩くような欲望が一切ないのと同じメカニズムなのであろう。

 

チョコレートおいしいね。おいしいけど気が付いたらほとんどなくなってるから怖い。

誰か叙々苑奢って。

電気毛布エクスタシーシンドロームカタライザ

自分が電気毛布にくるまっているかいないかなんて世界線に影響しないけど、電気毛布にくるまる人を想像して面白いと考えるがゆえに自分は電気毛布にくるまっているのだと平気で嘘をつく。電気毛布にくるまってうねうねと呻き蠢きつつ一方で小難しい文章を書こうとしていることの乖離に嘘をつかされている。淡い水色の電気毛布がしがみついてくるから仕方がない。温度が高い電気毛布は季節によっては飼い犬の様に僕にへばりついて離れないのである。幸福の代償としての変化は人を殺さないための抑鬱剤で、つまり冬は厳しいものである一方で冬がなければ得難い幸福感を液体の様に絶えず流し込んでいくという性質を背負い込んでいる。暖かい電気毛布に全身を掬われながら一生を終えれればよいのである。

嘘をつくことに敏感な人は物語が嘘をつきたい欲求から紡ぎだされていることを知らないのかもしれない。世界観に自分を投射して虚構という世界の裏側に入り込みたいと思ったのは何も読者だけではないのだ、なによりも作者がその行為の魁である。電気毛布にくるまらず真顔でキーボードの音を堪能する自分よりも電気毛布にくるまってしがない言い訳をくらくらと振りかざしている自分の方が楽しそうだから、自分がそうあってほしいから、虚構という名の嘘を騙る。一秒の狂いもなく自己完結である。嘘と本音の二項対立に際する虚構と現実の対峙は似て非なるものであるが、両者は放っておけば勝手に混同されたりする。文頭に立ち戻っていえば、世界線に影響を与えるのが嘘であり、影響を与えないのが虚構か。よくわからない結論を抽出してしまった。この化学物質には何の意味もないが、いつかすべてが磁石の様にくっつく日のために観葉植物の横に置いておこう。

 

京都が恋しい。正確には京都に存在する僕の欠片をかき集めたいというか。ラーメン食べたい。

赧色宇宙と燃える深海のサナトリウム

人間というものは、死んでしまった人を亡霊と呼んで死者はまだこの世に存在するのだと盲信したり、枯れ尾花をあれは亡霊だと自己暗示により思い込んだりして、藁と言うには脆弱すぎる理論に一縷の希望を求めて縋り付いたりする。死んだ生物に最優先でのしかかるものはそれがもう死体に過ぎぬという事実であり、世はまこと自分の思うままにはならぬという烏滸がましい諦念と泣き寝入りばかりが泥のように世界を埋め尽くしてきた。死という概念は道楽を得るために必要な時限爆弾である、というのも誰かが僕らの了解を得ずに道楽と恐怖を同時に味わえる世界への入場を強制した以上、道楽を得ることに対する生贄が死への恐怖だと考えてしかるべきだからだ。自分の意志に関係なく僕らはここに存在することに、永遠が存在しないことに対する99%の恐怖と永遠が存在しないことに対する1%の安堵を覚えるのが常である。

生きていることと死んでいることの違いは、事実の上に鎮座しているもののように思える。ただ生物学的に人が生きていたりすることが生と死の境界線というのは少し浅すぎやしないか。ここで、心臓が止まって脳が動かない状態になっていても人はまだ生きられるという持論を打ち立てたい。着想は日々を惰眠と甘いお菓子をむさぼるように生きている自分が死体と何も変わらないことから得たもので、換言するに僕は心臓も脳も肺も胃も腸も動いているのに生きている心地がしない気分になったことである。生ける屍である。ならばその逆、死した生きばねというのも考えられるのではないか。生と死の概念を都合よく拡張すれば、死んでなお他人に影響を与え続ける人物というのはまだ生きていると言えるのではなかろうかと思う次第である。例えば遺作が名作として語り継がれている芸術家の緋い血は、作品に共鳴する後世の人々に確かに流れている。彼に影響を受けた人物がその内に秘めたる思いだとかを言葉にし、世界に叫び、あるいは作品として残す。その作品にかつての彼の思いが一ミリでも含まれているんだとしたら、彼はそのときまだ生きているのである。死んでなどいない。

 

結論。

「創作活動は死への精一杯の抵抗である」