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空想群像劇場アウターブル

意味がないのに起き続ける心理状態をなんと呼ぶのだろう。寝たいのに寝たすぎるせいか寝にいくのも面倒になってる。でもこんな風邪引きかけの状態はなぜだか文章書くのが捗るんだよな。やっぱり理性って要らないものなのかもしれない。

 

どうしようもなく眠い時、ベッドに入って寝る寸前の時、聞いたことのないメロディーラインを思いつく。たいていそれがなかなかいい曲だったりする。僕は楽器が弾けないので、その思いついたメロディーラインを現実世界に引っ張り出すことができないんだよな。これが音楽の才能とかセンスとかだと思う。名だたる作曲家は、こんな感じに思いついたメロディーを現実に引っ張り出せるんだろうな。それは彼らの努力の成果なんだよな。僕は惜しみない努力を払ってまでそのメロディーを現実に持ってきたいとは思わない。これを音楽センスの差と呼ぶんだろう。

風邪引いてるときってなんであんなに文章書けるんだろうね。理性が死んでるから何も考えずに筆を進められるし、普段ならじっくり審議するところを簡単にゴーサイン出すからなのかな。文章書くときの理性って邪魔でしかないな。脳を頭蓋骨ごと破壊するしかない。

 

うどん食べたい。

サイケデリックミルクセーキ

何のために生きているか考えた人は全員死んだ

 

言いたいことが浮かばない今日この頃に危機感のようなものを感じる。理由はただ忙しいからであって、それ以上でも以下でもない。ただ生きて惰眠をむさぼってるだけの生活は灰色の脳細胞が動かざるを得ない、ほかの細胞が動かないからだ、その結果かえって充足した日々を過ごしていた、いや、体より脳を動かせることが充足だと脳に刷り込んでいるだけなのかもしれない。

苦しむことが幸せなのだということに気付く。考えることは苦しむことだから。でもこの文脈での幸せというのは脳内麻薬のもたらすソレとはちょっと乖離してるんだろうな。僕はもう動物じゃないから、動物になりたくないから、何が幸せで何が幸せじゃないのかぐらい、理解しててしかるべきなんだよな。人間やめたい。人間である以上人間やめたくないけど。ジレンマ。二律背反。アポリア。ウケるな。

どうせ矛盾してるんだし矛盾に寛容でありたいな。一度でも罪を犯した者は石を投げちゃだめなんだよな。でもそこで石を投げるのもまた矛盾だし。真面目な顔してみんな素顔の裏側のバーコードに欠陥ありの状態やや可って書いてあるんだから。不良品という名前の他人は是認していきたいな。でも不良品って呼ばれたくないな。なんとか埒外に逃げ出したいな。無理なんだけどな。ほかならぬ僕がそれを嫌がってるんだよな。

 

不穏な空気が背中を通り過ぎては消える矢印の救難信号

何もかも空の色の所為にする風潮と果たしてそれは緑色の空

危機迫ったときほど別のものが捗るだけマシとは逆転の発想というよりは発想の逆転というか、やっぱりどうにもならないものはどうにもならない運命なんだし自分を呪いに藁人形を編み釘を鍛造すること以外にすることがないというか、無為自然とかいう言葉はちょっと便宜が過ぎるというか、それ以上にただの言い訳でしかないというか。

かといって何か書きたいと漠然蒙昧と考えているからこそかえって書く内容が思いつかないというか、何も書きたくないときの方がかえって何か書きたいと思えるんじゃないかというか。

楽しいことを文章にするのが苦手なんだよな。多分語彙がないからだと思う。言語と現実の事象との壁をどうしても越えることが出来ない。思い返してみれば僕の手元で言葉が他者への攻撃のため、あるいは自衛のための凶器でなかったことがない。他人に凶器を投げまくってるけど、他人には凶器に見えてないんだろうな。生きやすい世の中。

楽しいって思ったこととかを素直に言葉にするのは好きじゃないんだよな。誰だってそうかもしれないしそうじゃないかもしれないだけなんだろうけどさ。でも愛想笑いはたぶん得意なんだ。数少ない特技の一つなんだろうな。生きにくい世の中だ。

 

音楽聞きながらこんなことやってるとバスドラムが階段を叩く音に聞こえる。誰かの足音に聞こえる。いちいち振り返って確認するから首がもげそう。痛い。

 

何か食べたい。そうだ、上にレアの牛肉が乗ったお寿司みたいなやつが食いたい。

綿棒 綿棒 綿棒

明日原稿締め切りなのやばくない?絶対書き終わらないじゃん

 

悩みは人につきものだし、悩みがない人って基本的にいないものですよね。だから悩みがないのが悩みとか、よくわからないことを言ってしまったりするんです。でも悩みがない人は、今悩みがないだけなんですよね。この後とんでもない大きさの悩みが来るかもしれない。それにビクビク怯えながら毎日を過ごさなきゃいけないわけです。悩みがある方がよっぽどマシな気がしませんか。悩みがある人は悩みがあるだけマシなんです。恐怖の対象が分かるなら、恐怖の対象が分からないよりマシなのです。ホラーゲームは何が来るか分からないから怖いのです。まぁ何が来るか分かってても怖いですけど。嗚呼スレンダーマン。ホラーゲームを淡々と遊べる人って一種のサイコパスロボトミー的な香りがしますよね。あくまでそんな気がするだけですよ。僕はホラーゲームは怖いだけでやりたいとはちっとも思いませんが、ホラーゲームを怖いと思ってなお恐怖を味わいに行きたい人の人生ってすっごく輝いてそうですよね。あくまでそんな気がするだけですよ。

 

牛タンを食べたいんですよね。誰か食べに行きましょう。

世界平和と地軸の傾きとアジフライ

水面の下で行われていることを覗くことができないのはとてももどかしい一方で、潜水艦の中にいればその場にいない人が水面の下を窺うのを全力で阻止したく思うことがあります。何かを隠すことは一種の快楽です。ものを隠せばそれに気付かない人たちに対して一種の優越感を感じることができるからでしょうか。優越感に代表されるような、ゼロサムゲームでない感情は上手くコントロールすればその場で純利益を作り出すことが可能なのかもしれません。

 

愛と恋との違いは、愛は人を傷つけないもので、恋は人を傷つけるものだと考えています(反例を認めたうえで、それらの認識が間違っていると考えます)。それはさておき、愛は理論上無限です。いくらでも与えることは可能です。すごくないですかこれ。人が唯一無限に、永遠に作り出すことのできる発明品が愛なのです。与えましょう。無限に作り出せます。与えても損をすることはないのです。消費しましょう。無限に作り出せますから。石油とは違うのです。消費すれば得しかありません。愛はコンビニで買えます。お安いものです。誰かの愛を消費しましょう。なければ奪い取りましょう。そうやって人は生きてきたんです。誰しもがやっていることです。後ろめたさなど要らないのです。

 

揚げ物が食べたいです。この前ファミチキに代表されるコンビニのチキンはあの肉汁感を出すためにわざわざ油を注入しているらしいということを聞きました。その話を聞いた直後こそもうファミチキを食べることができなくなってしまうのではないか、世界の終わりだという気分になりましたが、別にそんな事実も関係なく食べられるもんですね。人って享楽的なもんです。享楽的であってしかるべきなんでしょう、幸せなことを考えることが幸せなのですから。

人の金で焼き肉が食べたい

文章を書くのはやっぱり楽しいですね。僕には得意分野が少ないですから、オピウム一粒ほどの文章を書く才能を大事にしていきたいと思うのです。

世の中の娯楽というものを二分するならば、ある娯楽を楽しみにしている時間が娯楽を享受する時間よりも楽しいものと、娯楽を享受する時間が楽しみの極大であるもの、という風になるのでしょうか。僕の中で焼き肉は後者ですし、蟹は前者です。前者の最たる例の一つとして、長期休暇というものはおあつらえ向きな気がするんですよね。長期休暇が楽しみなのは、目下長期休暇に入るために必要な通過儀礼たる試験から解放されることが一番の楽しみだからなのかなと考えます。いざ長期休暇に入ってみると、やっぱり何もしません。笑えますね。夏休みとか、本当に寝てるだけでした。悲劇を二度と繰り返してはいけません。とはいえ、今春休みは原稿を完成させなければならないというタスクがあって、このために大人数が集まって原稿を書いたりカードゲームをしたりエプソンの箱で遊んだりしています。なんか、楽しいですね。ウケる。交友関係が完全に910のベクトルにしか伸びていないのもあって、わりと最善選択をしている気がするんですよね。もっとみなさんと遊びたいです。お待ちしてます。

 

春休みにやりたいことは多くありますが、名古屋に旅行に行ってイチゴパスタとかスガキヤのうっすいラーメンとか食べたいですし、数学とかプログラミングの勉強をしたい、しなければなりません。ガトーショコラは作ったのでウィークエンドを作りたいです(もっと段階を踏めってところですが)。名古屋に限らず旅行には行きたいですね、金が足りませんが。やりたいことは多いです、やりたいことがやりたいことの域を出ないことが問題なんですね。

 

炭焼きレストランさわやかに行きたいです。誰か奢ってください。

初めて記事タイトルに即したことを書いた気がする。

怪奇月食 星天旅行

目下二時間睡眠で大学と家を往復したためか、とても眠い。というか寝たい。だというのに自分の身をこうやってそぎ切りにしてまでここに文字を残しているのは、脳が文章を書く欲望に支配されているからなんだと思う。しかし悲しいことに、文章を何か書きたいとは思えるのに書きたいことが一向に思いつかない。

 

ものを書くときに僕は神的狂気と呼べるほどではないにしろ何かに憑依されてる気分になる。これは誰だってそうだと思っている、実際どうなのかは分からないけど。ものを書いているとくだらない雑談とか幼稚な感情に体を統御されている日常という名の燭台から抜け出して別のものに自我という青色の炎を移せる気がしている。世界を映し出す文字が生まれた理由が僕の中身に起因するものなのか僕の外側にある偽りの存在なのか判断がつかないけど、映し出されたものはたぶん僕の一部なんだと思う、けだし同時にその映し出された世界というものがひどく境界の曖昧なものであり何か選択肢を間違えたら手のひらから零れ落ちて行ってしまうのではないかという恐怖を抱えて生きている。どこまでが自分なんだろう。他人なしで自己が存在しえないように、自分はこうだと胸を張って形容できる言葉すら他人が作ったものであるように、たまたま何かを失ってしまったとき、失うという言葉以上に何かを失ってしまう気がする。

 

はぁ、眠い。ファミチキ食べたい。